くだらないことだとは知っている。
 望んでは、いなかっただろうと思う。彼は掴み所がない性格で、生贄としての自身をよく理解していた。喰われていくことへの抵抗もなく、消える時も恨み言は一言も口にしなかった。最も、その頃には彼が自由にできるものは心以外になかったのだが。
 諦観がなければどんな男だったのか興味はある。しかしそれは存在しえない可能性だ。見慣れたドアは彼の自宅のもの。その奥には見知った人の気配がある。
 相容れない相手であるし、自分としてもなぜこのようなことをしているのか理解に苦しんでいる。それでも体は勝手に帰ってきてしまうし、取る態度もまた彼をトレースしている。なぜかなど分からない。すでにそんなものは自分から消えてなくなったと思っていたものがまだ、残っているだけの話なのかもしれない。
「ただいま帰りました」
「おー、おかえり」
 やる気無さ気な声に反して部屋の空気は暖かい。出来上がっている食事を知らせる香りに混じる微かな苦味はきっと、自分だけが感じているものだろう。
 消える時に彼が心に浮かべた風景と空気と、そして言葉を自分は繰り返し続けている。
「おや、今日はコロッケですか。楽しみです」
「早く着替えちまえよ。冷める」
「そうですね」
 頷いて奥の部屋に入った。整頓された室内にらしくもないため息を吐く。帽子を脱ぎコートを掛けて室内着を手にとった。綺麗にたたまれたそれは、毎日悩まなくてもいいように選ばれ置かれている。
 くだらない、だが終わらせられない。彼が存在していた証拠はこの喜劇の中にしかないのだ。
 悼んでいるのはどちらも同じで、確執も消え失せるほどにそれは強い行動原理になってしまった。彼の中から嘲笑いながら見ていた時はもう少し笑顔が多かったように思う。時折浮かぶ笑顔は記憶の中と変わらない。
「おせえ」
「すみません」
 腕を引っ張り、抱き締める。らしくないの最高潮だがそうしなければいけない気がした。自分の中の僅かな彼の残滓が求めたのならば、従うしか今はできない。
 煌々と灯るライトが眩しい。腕の中で深呼吸をする銀髪の男は、ゆっくりと腕を回してきた。小さく漏れる呼び声に応え背中をさする。本当に滑稽だ。男は自分を憎んでいる、そして自分も男を蔑んでいる。だが彼は違っていた。
「ハザマ」
「はい」
「ハザマ」
「なんですか、ラグナ君」
「……っ、ハザマ」
 彼に自分がどんな感情を持っていたのか、定かではないし知りたくもない。ただの器に愛情など注ぐ意味が無い。
 彼の名前を繰り返して震える腕の中の体を自分の意志で抱き締める。この体にある記憶はきっと、自分よりは余程彼のことを美しく見ているだろう。その記憶を今は欲しいと切に願った。
 願いを奏上する対象など持ちあわせては、いないのに。
「大丈夫です」
 彼の望みに縛られてしまった自分は、いつか彼になれるだろうか。ラグナに嘯きながらテルミは今日もハザマの夢をみる。