ゆで卵が一つ。黄身はとろとろの半熟、絶妙な茹で加減。透視能力はないため推測だが、料理人の腕は良く知っている、間違いないだろう。
 エッグスタンドに綺麗に収まったゆで卵が一つ。添えられたナイフと、スプーン。こんがりと焼きあがったトーストに野菜サラダ、かりかりのベーコン、そしてミルクたっぷりの紅茶。見事なまでのブレックファーストだ。
 茫、と眠気で定まらない思考を必死に回す。今日はゆで卵が食べられる日だっただろうか。いつ食べられるか決まっているわけではないが、記憶が正しければ昨日もゆで卵は食卓に乗っていた。
「ラグナ……君?」
「あ?なんだ食わないのか?」
「まさかそんな!……いえ、ゆで卵が」
 自身の好物であるゆで卵だが、そうそうに食べられるものではない。あまりにも食べ過ぎたせいか、機構の健康診断で注意を受けるようになってしまった。
 それでも食べ続けていたのだが、最近は色々あって控えて――いや、控えさせられている。
「ああ。こないだ栄養士の資格取ったんだよ」
「は、はぁ」
 対面でトーストをかじるラグナは話はそれで終わりとばかりに食事を再開した。ちらりと上げた目線が可愛らしい、ではない。
 資格を取っていたのは知っている。通信教育で勉強もしていたし、料理の本が急増した。普段、めったに何かを欲しがらないラグナの頼み事にテンションが上がり過ぎて引かれたのも記憶に新しい。
そもそもゆで卵が食べられなくなった原因は彼だ。強引に同居をせがみ、泣き落としに近いことをして一緒に暮らせるようになった。今でも難しい関係である。そんなラグナだが、表立って外に出れない代わりに家事をこなしてくれている。ハザマもその仕事の性質故に家はおろそかになりがちだ、外で稼ぐ分あなたは家事をと頼めば渋々とだが受けてくれた。
 自立を旨とする彼にとって不本意であるのは理解していた。それでも自分のエゴに付き合ってくれているのだから頭など上がる訳がない。掃除の最中に見つけた結果にラグナは衝撃を受け、その夜は一晩中正座をさせられた。
「食べても……?」
「当たり前だろ」
 震える手でナイフを掴む。得物とするくらい得意なはずだが手が震える。そんなハザマを見てラグナが笑った。
「んだよ、そんな嬉しいのか。ほんっと好きだなアンタ」
「嬉しい、と言いますかその……珍しいな、と」
「珍しい?」
「昨日も頂きましたから」
 そう告げれば、彼は目を見開いた。
「だから、栄養士の資格取ったって……ああ」
 ようやく、話が通じていないことに気付いてくれたらしい。手に持っていたパンの欠片を咀嚼すると、ラグナは顎に手を当てた。
「朝飯は俺が作ってるだろ?」
「ええ、いつもありがとうございます」
「昼飯も弁当持たせてるだろ?」
「はい、とても助かります」
「晩飯も俺が作ってる」
「いつも楽しみに帰ってきています」
 思い返せば幸せそのものだ。おいしい料理を毎食きちんと食べられる。今までの食への興味の無さが勿体無く感じるくらいラグナの料理は美味しい。最近のメニューを思い出せばそれだけで頬が緩む。
 そんなハザマの姿を見て照れたようにうつむいたラグナは、オレンジジュースを一口飲み込んだ。
「ま、アンタがゆで卵好き過ぎるのは知ってたけど」
「はっ?」
「職場で隠れて食ってるって話聞いてガマンさせんのもな、って」
「し、知ってらっしゃった」
 そう、ラグナの料理は美味しい。だが好物が食べられないのはそれとは別の問題だ。一晩中正座の恐怖を思い出す。あの時の彼はそれはもう、怖かった。
「見えないところで食われるより、俺がアンタの健康管理できるところで食ってもらった方が安心できんだよ」
 頬を染めて笑ったラグナから目がそらせずに、ハザマは息を飲んだ。
 そのために栄養士の資格まで取ってくれたのだ。自分の、ハザマの体のために。
「ラグナ君!」
 思わずテーブル越しに手を握ってしまう。本当に幸せだ。好きな人がいて、好きな人と暮らせて、想って、想われて。自分には過ぎた幸せだと暖かな手のひらに指を絡める。
「ありがとうございます」
「そんな喜ぶことかよ」
「すごく、嬉しいです」
 そっぽを向いた彼に微笑むと、片手でゆで卵の上部を切り落とす。綺麗な黄身に塩をかけるとスプーンで掬った。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
 口に含んだ味はやっぱり、最高のゆで卵だった。