ヘタレハザマといい人ラグナ。
茫洋とした心持ちでラグナは雑誌を眺めていた。考えることもなく、字を追っても意味は頭に入っていない。ただの風景の揺らぎとしてゆっくりとページを捲る。
「面白いですか?」
後ろからの問いかけに少し考えて首を振る。ただ眺めるだけの作業に面白いも何もない。
差し出されたのは緑茶だ。受け取ると一口飲む。苦い。苦すぎて、とても飲めたものではない。だが文句を言えるはずもなく、ラグナはただ黙ってそれを飲み干した。
さらさらと目の端を揺れる新緑はそうですかと静かな声を返した。普段ならば饒舌の中に大袈裟なまでの感情を込める男のはずだ。しかし今、は、凪いだ静けさ。底辺を流れる旋律は聞こえないほどに小さかった。
「ラグナ君」
後ろから抱きしめられてため息を吐く。尊大なまでに人を喰った態度の奥に隠れていたのは、臆病で柔らかい心だった。初めてそれを自覚したハザマは怯えに怯え、そして。
弱い人間は嫌いだった。だが、彼は庇護されることもなく震える子供にしか見えなかった。新しい知覚の意味が分からずに、愛される暖かさも知らない。彼を憐れんでしまった自分が愚かだ。
怯えた目をし嘲るハザマの挑発に乗ったのが一週間前。盛られる薬に耐性がついたのは四日前。長居をしてしまったと思う。
「まだ、大丈夫……目覚めていないはず」
小さく呟く彼は本当に見えていないのだろう。ぎゅうと力を強くするとラグナの首筋に顔を埋めて、やがて寝息を立てた。
「……ばーか」
ふわりと香るシャンプー。身だしなみに気を遣う彼だ、きっと良いものを使っているのだろう。そっと頭を撫でると、体が身じろいだ。
「猿芝居してんじゃねーよ子犬ちゃん」
「うるせえ引っ込めテルミ」
うんざりと眉を顰めれば、耳障りな笑い声が上がる。
「大体よォ、こーのテルミ様に黙って何してくれちゃってんのハザマちゃんてば。子犬ちゃんも子犬ちゃんで付き合っちゃってさ」
「そういう問題じゃねぇ。テメェとハザマは別人だろうが」
「やっば、てめーらお似合い? マジ? 超ウケるハザマちゃんと同じ事言ってるし」
黙ってラグナはハザマの頭を撫で続けた。テルミの奥で眠るハザマは良い夢が見られているだろうか。現実へと対峙するために鎧を纏える安らぎは、彼に作れただろうか。
ラグナが取り合わないため興をそがれたテルミは肩をすくめた。
「ま、忘れんじゃねーよ?ハザマちゃんの中には、オレがいる」
そんなことは今更だ。ハザマに主導権が戻った体はラグナを逃がすまいとするかのようにすがりついている。潮時か。
「縛れないのが、テメェらしさかもな」
起こさないように立ち上がる。諜報部に属する彼は、きっと誰より気配に敏いはずだ。それでも起きないのは、ラグナが逃げないと安心しきっているからなのか、疲れきっているからなのか。
後者であることを知りながら抱き上げて寝室へ運ぶ。安らごうとして安らぎから遠ざかるハザマが哀しくもある。覚悟は。誰ともなしに問いかけても、答えは行方不明だ。
ベッドに寝かせた体は軽かった。胸元を寛げて顔にかかった髪を避ける。寝顔は少しだけ幼く見え、思わず微笑んだ。
「………………じゃあな」
すっかり覚えてしまった部屋が少しだけ、名残惜しい。断ち切るように玄関近くに放り出されていた愛剣を取り上げた。たった一週間だというのにわずかに手に馴染まない感触に苦笑する。飼われていた。それはしかしラグナの意志であった。後ろを振り返れば、陽の光があまり入らない部屋があった。めくっていた雑誌も湯呑みもそのままだ。あまり使っていないらしい、悪い意味で綺麗な台所には昨日渡されたマグカップが置きっぱなしである。
ハザマの存在が薄い部屋で、自分が居た跡がやたらと目立つ。残していくのは不憫だが、夢と思わせるよりはまだいいだろう。
ドアに手をかける。これで、自分とハザマの立ち位置は元に戻る。追うものと追われるものの二重構造の螺旋が二人の心に溝を刻んでいく。首を振って考えを消すと、ノブを握った。
「どこ、へ」
手を止めた。振り返る。
寝室から半分覗く顔は憔悴している。嘲笑を装おうとして失敗した無残な表情にラグナは息を飲んだ。
「ははっ、いい道化ですね。いつから、正気を」
「……最初に盛りやがった薬が切れたのは当日の三時間後だ。完全に耐性ついたのは四日前だな」
「そうですか」
俯いたハザマは喉の奥から搾り出すような笑い声を立てた。もう一度、問いかける。覚悟は。
自身に抱く感情を理解出来ない男を受け止める覚悟。いつ仇に変わるか分からない男を抱き締める覚悟。いつか必ず来る別れを知りながら、絆を繋げる覚悟。ひとときの幸せが彼を安らがせることができるだろうか。
ふらふらとラグナに近付く男を見つめる。自分はどうしたいのか。その手を取り抱き締めることを厭わないのか、望むのか。始まりは憐れみだ。だが、それは変質した。
「逃げないのですか」
「弱ぇな」
ラグナへと伸ばされた腕が凍りつく。その様にため息をつくと、緑髪に紛れる涙を拭った。
「素直に言えよ」
「何を」
「俺にどうして欲しい」
拭った腕を掴まれる。
「言えよ」
「――ないで」
「聞こえねえ」
「行かないで、ください」
「それだけか?」
掴んでいる手を外し、逆に掌を指を絡めて握ってやる。一瞬見開かれた瞳は、渇望する金の色だった。何も知らない子供のようにただ欲しいという強さだけが輝いて、絡め捕られていく。
小さな力で握り返された手は震えていた。
「自分があなたにどのようなことをしたのかは、理解しています」
「だからなんだ」
「それでも構わないと」
「構わねえから言ってんだ。大体、逃げるんだったら薬切れた時点で逃げてるっつーの」
「強いですね」
繋いでいる手の反対の腕で抱き寄せられた。抵抗はしない。
「そばにいてください」
「ああ」
揺れる肩を抱きしめて、頭を軽く叩く。
「ったく泣いてんじゃねーよ」
「すみ、ま、せん……」
「あ、でも薬とか軟禁は勘弁な」
「わかってます……」
覚悟も、望みも。結局のところ衝動に勝てない。彼の安らぎになりたいなどとはどうかしている。
だが今ラグナの頭を占めるのは全く違う事柄だ。彼が泣き止んだら、一緒に買い物に行こう。夕食のメニューを考えながら、他愛ない話をしよう。そして一緒に夕食を作り、笑いあいながら食事をしよう。なんでもない明日を、自分と彼とに。自分と、彼とに。