現代パラレル・ホストラグナ
ため息のような音を立てて、自動ドアが開いた。誰何の声をかけたきり沈黙を守るインターフォンが怖い。
苛立ちに任せ白銀の髪を振れば、甘ったるい残り香が鼻腔に届く。仕方ないことだと罪悪感を無視しドアを潜った。不況の中、職に就けているだけでも奇跡である。それに彼とだってこの職業のおかげで出逢えたようなものだ。
「…………いいじゃねーか」
異相も銀の髪も問われない職業など滅多にない。だが、生まれもった道徳観はそんなものはただの言い訳だと責め立てる。恋人のマンションにアフターをこなし朝帰りするなど、人としてどうなのだ、と。
そんなことは解っている。今の生活に後ろ向きながら満足してしまった自分が悪いのだ。
「……寝てねぇし」
エレベーターの壁にもたれかかる。実際にアフターとは言っても朝まで別の場所で飲み直す程度で、相手と性的な接触をすることはない。
今朝も馴染みの客のからかいに辟易しつつ送っただけだ。
「厳しいんだよ…………」
それでも、不義理を働いているという思いが消えないのは後腐れのないバーチャルな恋愛を商品として売るからだろうか。
開いたドアの先、部屋に向かう足取りは重い。ラグナ、職業ホスト。毎朝の帰宅に毎回の思索。大きく息を吐くと恋人であるハザマの部屋の扉に鍵を差し込んだ。
「荒れてる」
涼やかな音を立てたグラスをコースターに置くと、優雅な仕草でライチは脚を組み直した。際どいスリットの入ったワンピースが動きに合わせて落ちる。
休みなら今日は是非食事でも、という一度は断った誘いに乗ったのは、彼女には自分とハザマの様々な相談に乗ってもらっていたためだ。無理やり聞き出されたとはいえ、あまり世間的に大っぴらにできない恋愛をしていれば、必然的に話せる相手は限られる。今は別れて暮らしている弟妹にもまだハザマのことは話したことはなかった。そうでなくとも潔癖な弟には職業に眉を顰められているのだから仕方がない。
勢いよく置いたビールのグラスががたりと鳴る。はしたないとたしなめるライチの目はしかし、面白そうに輝いていた。
「その苛々はいつもの職業柄?それとも恋人さんと何かあったのかしら」
「…………うっせぇ」
この自称女医は何が気に入ったのかラグナを常に指名する。ホストらしくないのは自覚するところであるし、店での指名率も下の辺りをさ迷っている。正直な話、彼女の指名でもっているようなものだ。
しかしホストらしいことをしたことはない。酒を飲んで素のまま彼女と話すだけだ。やりづらい相手だが、話し相手としては悪くなかった。
「鍵が、な」
「ええ」
「変わってた」
無言で続きを促すライチを一瞥するとラグナはもう一度ビールを呷る。
「それだけだ」
「あらあら。それでこんなにもご機嫌斜めなのね」
艶やかな唇に笑みを刷き、肴のローストビーフを器用にフォークへ乗せるとラグナへ差し出した。一口に食べきるとため息をつく。
「遊ぶんじゃねーよ」
「乗るか乗らないかは、あなたが決めることよ」
「そうだけどよ…………」
さすがに今回は堪えたのだ。家に戻れば例え喧嘩をしていたとしても話ができる。
「もう我が家だもんね?」
「……………………ああ」
彼の部屋に増えていく自分の痕跡。少しずつ多くなる二人の物。嬉しくないわけがない。ラグナが料理道具を買って帰る度にはにかんで笑って、すぐ困り顔を作り文句を言う。料理をすれば横に来てなんだかんだと口を挟み、手を出し、そして二人で出来上がった食卓を囲むのだ。ラグナの手によるものを口にして、美味しいですと笑う顔が今は遠い。
自分の家はまだ借りているが、今はほぼハザマの部屋に住んでいた。不規則な仕事である自分がハザマに会いに行ったほうが早い。生活時間が全く違うのだから一緒を長くするには住めばいい。それは二人で決めたことだった。
ほろほろと思い出が零れていく。終わりなんだろうかと停止する思考。道はある、だがそれは。堂々巡りでがんじがらめの、抜け出す先をあえて見ぬ振りをする迷い人だ。現状を変えることに臆病な、だけ。
「――今日、ご飯を一緒に食べましょうって誘ったのはね」
グラスを取り上げたライチは小さく回して氷を鳴らした。その音に思索の海から浮上する。いたずらっぽい笑顔で笑った彼女は、ラグナから静かに視線を外した。
「私、ちょっと海外に行っちゃうから貴方に会えなくなるなあ、ってお話をしようと思ったの」
「……そうか」
「あなたあんまりホスト向いてないでしょ?指名してるの私以外に見たことないし」
「うるせえな」
心配されることじゃないと告げればそうね、と返される。ラグナに戻された視線は、やけに暖かな色をしていた。それはラグナを庇護する色だ。
「でね。恋人さんとの話もよく聞かせてもらっててね、老婆心ながら、一言言いたかったの」
白くて細い手が、白銀の頭に優しく置かれる。ゆっくりと撫でる仕草は子供をあやす母親のようだ。
「好きでホストやってるんじゃないなら、やめなさい。仕事がなくなって不安になるのは分かるわ。でもね、とても辛そうだもの」
恋人と、仕事と。その間で苦しんで、揺らめいて。それでも、と立ち続けられるほど好きな仕事ではない。やめろ、と言おうとした言葉が喉に詰まった。覗き込んで微笑む顔に視線を向ければ、元気付けるように彼女は頷いた。
「俺は……」
何を言えるだろう。正論の強さはライチの優しさで緩んでいる。弱音を吐く事など出来ないと思う心も、優しい手に緩んでいく。
「なんとか、してえ」
「大丈夫、なんとかなるわよ。ふふ、困ったことがあれば相談してくれればいいし」
「…………ライチ」
「背中ならいくらでも押してあげるわよ?それこそ、滝壷に叩き落す勢いでね」
まだ迷いは晴れない。だが、晴れないままで進むのもまた人生なのかもしれない。自身の良心に責められる痛みなど、いらないのだ。
小さな声で礼を言えばあやすように手が頭を軽く叩く。それを払うと、ラグナは立ち上がった。
「どこ行くの?」
「とりあえず辞めてくる」
「いいわね、善は急げよ。……なんなら、就職先も決めちゃったらどうかしら?」
にっこりと笑うライチに、子供のように頷いた。
様々な手続きを終えハザマのマンションに戻れば、エントランスホールで見覚えのある緑髪が蹲っていた。
「……おかえりなさい」
「なにしてんだよ」
「待ってました」
俯いたままのため声は床に反響しくぐもっている。ちらりとも視線を寄越さない男はしかし、どこか怯えるかのようでもあった。スーツを脱ぎ私服である彼の世界を、鎖すように体中に飾られた銀色たちが柔らかな照明にくすんで悲しい。
「ただいま、ハザマ」
「ラグナ君……」
伸ばされた手を取って立ち上がらせる。視線は合わない。だが今はまだそれでいい、と思えた。こうして二人で会えれば望みはある。
「帰ってこないかと思いました」
「バカか」
「そうかもしれません」
繋いだままの手を引かれエレベーターに乗り込んだ。階数ボタンを押してドアが閉じた瞬間、小さな密室の壁に押し付けられる。唇を塞いだのは少し体温の低いハザマの唇だった。ある程度予想が付いていたラグナは相手の後頭部に手を当てると、その動きを阻害しないように追従する。
監視カメラなど、気にもならない。いっそのこと見せ付けてしまってもいいとさえ思う。男同士のキスなど滑稽さ以外にカメラの向こうには与えられないだろう。自分を待っていてくれたハザマに対する気持ちが可視化出来るなら本気が伝わるかもしれないが、少し勿体無い気がした。自分たちへの興味を警備員が持つはずもなく、ただ笑い話にされるだけだろう。
取り付けられたカメラから二人の顔を隠すように移動すると、ハザマは一瞬唇を離して笑った。部屋に入ると靴を脱ぐ間も惜しいとばかりに腕を引っ張られ、リビングで押し倒された。
「待った、ちょい待ておい」
リビングのラグに押し付けられた体を起こす。覆いかぶさったまま一緒に体を起こし、不満げに薄目を開けたハザマの頬に軽いキスを落とした。
「言いたいことあるから、言わせろ」
「……わかりました。でも早くしてくださいね、待てそうにもないです」
子供のような物言いに零れた笑みを相手の肩に顎を置いて隠す。それでも見えていたらしいハザマは、背中に腕を回して強く抱き締めてきた。苦笑してラグナも抱き締め返す。こんな戯れが出来るのが、幸せだ。緑髪の間から覗く形の良い耳に顔を近づけると、まぶたを閉じた。
「仕事、辞めてきた」
「――ッ!ら、ラグナ君それって」
「新しい仕事は客からの紹介だけどよ、まあそんくらい許してくれ」
「……はい。それって、常連さんのですか」
嫉妬が滲む声が嬉しいと思ってしまう自分は十分彼に毒されていると思う。ただ、と笑いながらハザマの背中を軽く叩いた。
「ああ。てめえも知ってるだろ、ライチだよ」
「へ?……え?」
「ま、紹介してもらったのは事務だからな……あっちで会えるかは、わかんねーけど」
狐につままれたような顔をしているだろうハザマは、ライチが個人で開業している診療所の税理士を担当している。一方ラグナが紹介された仕事はライチの個人的な秘書スタッフであり、海外にいるライチと診療所との連絡係だ。
診療所のスタッフとの面通しも済んでおり、女性ばかりの中男手として期待されてもいる。そもそもハザマとの出会い自体、酔ったライチがホストクラブに無理やり連れてきたことから始まっているのだ。敵わないなと肩を竦めるのも仕方ないことだろう。
「はぁ……ライチさん、の」
「そういうこった。ま……よろしく、な」
ゆっくりと倒される体が暖かい。ハザマの複雑な、だが嬉しそうな顔に手を伸ばす。
「好きだ」
「……後で、鍵、新しいの渡しますね」
「ああ」
「帰ってきてくれて、ありがとうございます」
「待っててくれて、ありがと……」
そこから先は、言葉にならなかった。優しい、臆病な唇がラグナを塞いで閉じたから。