魔術師ハザマと竜ラグナ
煮立っている鍋に一欠片の岩塩を放りこむ。本当に僅かな量だ。すでに火からは下ろしてあるそれは自然の摂理に従って緩やかに熱を下げていく。別の小さな鍋に四分の一くらい冷まし湯を取り分けると、砂糖と薬を入れかき混ぜた。一瞬だけ考えて小瓶から琥珀色のとろりとした液体を注ぐ。昨日、旅の商人から手に入れた南方の蜂蜜だ。そこに皮を剥いて輪切りにしたレモンを入れると、ハザマは横をちらりと見た。
傷だらけで鱗もくっついているより剥がれ落ちている方が多いだろう。辛うじて貼りついている根性のある鱗は深い赤色をしている。血に汚れたたてがみは夜の女王と同じ銀の色だ。胸元が規則的に上下していなければ死んでいるものだと思って放置しただろう。
清潔な布を残しておいた湯に浸して軽く絞ると、予め鞄から取り出しておいた調合薬を染み込ませる。
体はまだ小さく恐らくは竜の中でもまだ子供と呼ばれる個体だろう。鱗の剥がれた体は薄ピンク色をしているが、右前足だけ鱗も真っ黒に染まっているのを見る限り何らかの呪いに蝕まれている可能性もある。そして、幼いとはいえ人とは違う理で生きる存在だ。いくらハザマが名の知れた魔術師でも彼らの力には勝てない。ないよりはましな防護魔法を己に掛けると、恐る恐る布で体を拭き始めた。
「……起きないで下さいねー」
小さいとは言え、それは他の竜と比べればの話だ。ハザマと同程度の体長を持つのだから、少しの物理的攻撃でも吹っ飛びかねない。いっそ魔法的な攻撃であれば多少、否、勝利を望める自信もあるのだが。あまり戦闘向きではないのだ。
治癒魔法で癒せば楽で話も早いが、寝ている危険な魔法生物に向かってわざわざ起こす真似をするのも嫌だ。自力で回復できないダメージを受けているのなら、襲い掛かられて魔力を吸い取られるのがおちである。
「誰ですか、傷付いた竜は見かけたら保護するようになんて法律出してるのは……」
そうでなければこんな面倒なことはしない。その法律を出したのはハザマが建国にも関わった国の国王様だ。竜の血を継いでいると専らの噂である少女はその兄とともに玉座についている。見目麗しい兄妹であるし、妹の優しさに兄の厳しさが加わって中々いいコンビだ。確かもう一人生き別れの兄がいる、と言っていたか。
それにしても酷い怪我だ。どうすれば竜がこんな怪我をするのだろうか。ちらりと双子の兄のことを考える。首を振って想像を消すと、手当に専念した。
痛みを感じた。同時に、転げまわりたくなるような痒みも感じる。重い瞼を開くと目の前に寝ている人間がいた。自分の体を見れば、丁寧に包帯が巻かれている。僅かな魔力の残滓は目の前の人間と同じものだ。
こくり、と唾を飲み込んだ。渇いている。ただの動物とは違う、魔法で生きる生物だからこその渇きだ。横たわる人間はその点で申し分ない魔力を備えている。人間にはいっそありえないと言えるほどの魔力量に自然と喉が鳴った。じわりと這って距離を詰めていく。
人を捕食するのは好きではない。まだ成人していない自分にはその許しも与えられていない。何より、同じように笑い、悲しみ、怒る存在をどうして食べようと思えるだろうか。
そのような良心の制止は今、たった今は意味がなかった。人間の柔らかな首に歯を立てて身から魔力と命を奪う。正気を取り戻せば後悔するだろうが、後悔する時間すら与えられないよりは。そう言い訳をしながらついに、足元に人間を見下ろす位置にまで来た。
「――『留まって』」
響いた声は深い。魂を束縛する言葉が動きを止めさせる。あと首を伸ばせば喰らいつき赤い命を啜れるというのに、筋の一つも動かない。いつから起きていたのか夜目にも鮮やかな緑髪を揺らし、人間は起き上がった。と、そのまま横にあった鞄を漁っている。
「ああ、ありました。舌と口と喉、消化器官は解放してあげましょう」
手にははっきりと輝くエメラルドが握られている。人間の、魔力を帯びて光る金色の瞳が細められた。笑われたのだと気付いて額が後頭部が冷えた。
「どうぞ。いざという時の魔力のストックですが、命の危機と比べれば安物ですからね」
唇に押し付けられた罅一つないエメラルドは成程、純粋な魔力を練りあげて作ったフェイクジュエリーだ。人造宝石どころか天然宝石とも比べものにならない値段を付けられるだろうそれは、しかし、今の自分にとっては渇きを癒す史上の甘露である。
舌で絡めとり、飲み込む。飲み込む喉の途中で溶けて、広がる魔力は毒のように甘かった。
「どうです?」
味としては甘すぎるが問題はない。力としては、人間に持ちうる最上級、ではないだろうか。
「甘い」
「お嫌いでしたか」
「いい。落ち着いた」
「それは良かった。私も食べられては敵いませんからね」
人の顔の作りからすれば、それは笑顔に分類されるのだろう。だがどうにも目が笑っていない。底の冷えた金の瞳は、人間ではないものを連想させる。
「おかげで、一気に渇きが癒えた。悪いな、秘蔵だろ」
「ふふ、竜に礼を言われるとは。ああ、私はハザマと申します。よろしければお名前を?」
名前といえど、通名だろう。初対面に本名を教える者など皆無だ。当然、自分も通名を持っている。
「ラグナ。ラグナだ――発音出来る音になっているか?」
「問題ないですよ。竜にしては、人に近いのですね」
「人間のくせに水霊みたいな、アンタに言われる筋合いねーな」
金の瞳が一瞬だけ見開かれた。お分かりでしたかと唇を歪めた男に嘆息する。分からないとでも思ったのだろうか。
「冗談です。……さて、それじゃあこれからの話でもしましょうか」
「これから?」
それは当然、自分の扱いについてだろう。だが起きたのだからもう助けはいらないはずだ。そう告げるとハザマは微妙に退屈そうな顔をした。それどころか、あからさまに面倒くさそうである。
「あのですねー、全くもって腹立たしいことに今いるこの国の法律はそれを禁じています。大体貴方、次に渇いたらどうするおつもりなのかお聞かせ願えませんかねえ」
言葉に詰まった。
確かに今はあのフェイクエメラルドで収まっているが、未だに傷の自動修復が起きないところを見ると魔力が完全に回るようになったわけではないらしい。つまりその器官の修復が終わるまで、定期的に魔力を外部から摂取する必要がある。ここまで酷い怪我を負うことなどなかったため、考えたこともなかった。
沈黙したラグナに肩をすくめたハザマは小さな鍋を差し出してきた。
「とりあえず、その姿で私に同行するのは避けて欲しいのです。魔力の補給も面倒ですし。というわけでどうぞ」
「――飲むとどうなる」
「恐らくは人間に近い形になります。効き具合にもよりますが、まあ大方人間と変わらない状態になるでしょう」
「直るのか?」
「…………バカですか」
脊髄反射で戦闘態勢を取るが、ハザマは動じなかった。
「元々人間の形を取るくらい容易い事でしょうに。それと同じことを薬で補助しているだけです」
「初対面で妙なもの飲ませられることに異議くらいは許されるだろ……」
「治療ですから」
開き直ったように胸を反らす男にがくりと頭を下ろす。
「開き直らなきゃやってられません」
「わかったわかった……飲めばいいんだろ」
鍋に舌を突っ込んで薬を舐めとった。爽やかな味が口の中に広がる。甘みは蜂蜜だろうか。体のかゆみが消えたと同時に、奇妙な感覚がラグナを襲った。まず、尻尾がない。翼がない。左手を見ればそこには人間と同じ五本の指があった。右手はやはり、真っ黒のままだったが悪くはない。
顎に手を当ててこちらを見たハザマは、何かを思いついたように手を叩く。途端に、身体中が何かに覆われた。
「全裸はさすがにねえ」
「服、だったか」
「ええ。貴方の鱗と同じ色で揃えておきましたよ」
血と同じ色の赤だ。中は黒で、裾の長い袴が足に絡むが動きにくくはない。ひらひらとするそれを手で弄んでいると、ハザマが笑った。
「お気に召されたようで何よりです」
「悪かねえな」
「ああ、それと」
ふわりと手を取られ、甲に口付けられる。
「なっ」
にを、と続ける前に意図を理解した。触れた場所から魔力が流れこんでくる。僅かな量だが、回復を助けるには十分だ。
「寝ている間に食べられてはいけませんからねえ」
金色の瞳が楽しげに光っていた。息を飲んで姿を見つめる。人のようで、だが水霊の気配も感じさせる男。自分はしばらく彼の庇護下にいなければならないらしい。
なんだか、大変なことになりそうな予感がした。